昭和52年09月24日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
ここで芯なければ火は灯らずという、芯と信心せよという信というものが、私は同じだと思うのです。それは、信ということは信じると言う事なんです。和賀心が神に向かうのを信心というのじゃというのは、神様を信じて向かう度合が、段々本当なものになっていくと言う事なんです。ただ神様にお参りさえしよりゃというのではない。今日はそんな風に頂いてもらいたいと思いますね。
今日は合楽にお参りしようかと心が向いた。もう既にそれが信心だというのではなくて、神様を信じる度合が愈々合楽へ合楽へと言う事になってくる。芯なければ火がともらず。いうならば信じる心がなからなければ、自分の心の中にも光が灯す事が出来ません。一家にも自分の周囲にも光を表す事が出来ません。神様を信じておるからと。そこでいうならば神様を信、わが心が神に向かうていくその手立てというものが、色々工夫されなければならない事になる訳ですね。
本当にあの時には、あぁして一生懸命お参りさせて頂いて、不思議な不思議なおかげを頂いたが、本当に神様とは有り難い事だというふうにです、いわゆるおかげを受けて神様を信じていくと言う事もですけれども、それでは段々時間が経ったり、また次に願った事がおかげにならなかったりすると、あれはやっぱ例えば病気で治る、治るごとなっとたつじゃろうとか、あの時は腑がよかったつじゃろうとか、と言う様な事に、はっきり口ではそう言わんに致しましても、そういうものが心の中にあるわけ。
ですからそのお参りすらも出来んごとなってくる。お参りしたばってんおかげ頂ききらじゃったけんと言う事になる。そして私共ごたるとじゃおかげ頂ききらんけんと神様から遠ざかる。だから結局あの勿論、おかげを頂く事によって、信じる力も生まれてくるけれども、いうなら本当の信じる稽古というのは、そう言う事ではなかろうと思う。一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるのじゃと、そういうのではいけない。一心を立てれば和賀心になる。それは金光様じゃなくてもよい。
石のお地蔵さんでもよかりゃ、いうならコダチ一本を目当てにして拝んでも、奇跡位は起こると言う事なんです。そして次におかげを頂き切んと、そのおかげを受けてもそのおかげがいうなら、陰の薄いものになってくる。私は思いますのに今合楽でしきりに言われます十年祭までにせめて、合楽理念の確立と言いたいけれどもね、その例えば一つだけでも、本気で自分のものにしようという、それは一つ本気で黙って治める。
昨日御直会の時に竹内先生が、親先生この黙って治めると言う事は、他の方達はどうか知らんけれども、市長としてはこげん難しい事はなかち。色んな会議の時に色んな攻撃があったり、そこにはっきり言い訳をせんならん様な事が出来てくる。それでも私はそれを一生懸命修行させて頂きます。そうするとそこから不思議な不思議な働きが、起こってくるといわれるのです。もう思いもかけない人が私の矢面にたって下さって、私が言う以上のことを言うて下さる。
で私がむしろ止め役にならなんような、体験をこの頃感じますと言っております。自分が言うだんじゃなか、しかも思いかけない人が自分の矢面にたって一生懸命にいうて下さる。だから私はその止め役にならなんとこう言うわけなんです。素晴らしい体験ですね。ここで私が言わなければ、言うもんがおらんというものじゃないわけなんです。先日も伊万里の婦人部の偉い方たちが市長さんの宅を訪問された。そしてお部屋に「寛」の字が私、写真に書いて差し上げておるのが、自分の今部屋にかけてある。
市長さんがこの頃あの、どこどこの婦人会にお話に出られた時に、あの寛の字のお話があった、これですばいのち言うてから皆がいいよんなさった。いわゆる寛大の寛です。自分が大きくなっておこう、豊かになっておこうというだけものではなくて、信心例えばウ冠に草冠と書いてある。天地は自然の中にいわば求め給うものである、私に求めたものであるとそう見るのである。ですから黙って治めてある。だから市長さんは寛大だ心が広いなあと言う事にもなって来る訳なんです。
いわば言わんでむ済む事になって来る訳である。その向こうにいうならば広い心に広い大きなおかげが約束される訳ですから、そういうおかげを頂いて、初めて言うならば確信というか神様を信じる心が愈々確実なものに成って来るです。それを私は確立だと思う。合楽理念の確立その中の黙って治めると言う事だけでも本気でこの事を行じようと。何年も前だったですかね、まだ長女の絹子さんがまだ縁につかれる前でしたから、それから絹子さんシズ子さん和子さんが縁につかれたのですから。
もう三、四、五年になるでしょうかね、ものが出らんごとなった。丁度暮れのお酒屋さんとしては、一番その言わなければならない時ですよね。酒屋さんじゃけん。でその時にどっこいものが言われた者が出らんのです。ある(?)修行をそんときなさっておられた。所がいうなら、酒屋さんで暮れの忙しいというか、自分がたっちしなければならない、問題ばっかりなのですけれども、タッチ出来ないわけである。それはこうしておけばよかばい、あぁあしておけばよかばいという指図も出来んという。
そこで神様にお縋がりするよりほかにないのです。絹子さんがその時分に、自分の意志を通したいというてのある意味の、親に対する我儘を通しておる時分でした。長女が。そしたらお母さんが、ものがでらんごとなったとここにお届けに来てから、お母さんの言う事を聞きますけん、ものが出るようになりますようにというて、涙ながらにお取次ぎを頂いた事がある。まあそういう問題もだからそこでその場で解決した。
そして明けて正月になってみてです、暮れの一番私が言うならば、おらなきゃどんこん出来んと思うような中に、私はおらんも同然のような状態であったけれども、その事々というのが、みんなスムーズに自分の思う以上に問題が解決したり、おかげになっておったりしておる事実に、成る程黙って治めると言う事の素晴らしさを、身をもって体験されたわけなんです。
だからそういう素晴らしいその働きがそれこそ、伊万里の市長さんではないですけれども、いろんな会議の時にそれは、勿論説明とかいろんな話はなさらん。黙ってしもとると言う事じゃないです。けれども何ですかね、ここはこういうとかにゃ自分の都合が悪いと言った様な、いうなら言い訳的な事ですよ。よくここで黙って治めると言う事をです、幾人もの人があの、実際その事に取り組んで見ると、ここはいうのがほんな事じゃなかろうかと言う所が出て来る訳。
先日日田の井手さんが、子供さんの事でその事をお伺いになった。勉強せろと言うたっちゃ勉強せん。そげん時でん黙って治めると言う事は、言うちゃならんとでしょうかという質問に対してです、そうじゃのうそりゃ大体は言わんが一番よか。そして神様にお縋がりをする、神様にお育てをするお育てを頂くが一番良い。けれどもね自分の感情が無い時、いうならば言うたがいいでしょうねと。
ところが不思議な事に明くる日になってみると、そんなに言わんでも良いような事をまあ、言うとかなきゃならんと思う様な事が実を、言うたら多いのである。けれどもそれを、親先生がそう言われるから、黙って辛抱しておるのだと。これはどう言う事かというとね、親先生を信じておるから言わんですむのですから、親先生から信じられるわけ。親先生から信じられると言う事は、金光大神から信じられると言う事であり、また天地の親神様から信じられると言う事にも繋がるのです。
黙って修めると言う事は神様を信じておるから、黙って治められるのですよ。だからそれが本当にそうだと分かった時に、その信心が皆さんの心の中に確立したと言う事になるのです。そこからどういう働きが起こって来るかというと、神はが信ずる者を信じるという働きが生まれてくるのです。これが素晴らしい。神は信ずじるものを信じる。私共が信ずるというのは、このくらいだけれども、神様が信じて下さると言う事は、これはもう限りの無い程しのおかげに繋がる事になるのです。
それはどう言う事かというと、言葉を変えるとご信用を頂くと言う事であり、お徳を受けると言う事なんですから。限りないおかげがそこから約束されるわけなんです。そして黙って治めると言う事の有り難さとか尊さじゃなくて、こんな楽な事はないと言う事になるのです。始めの間は本当に、言いたい事を言わんと言う事はもうそれこそ、もう胸がどうにもこうにも、張り裂ける事ある思いをする事もあるです。
そこの修行を通り抜けた向こうに言わんですむと言う事は、なんと楽な事であろうか、有り難い事であろうかということになる。成程その芯がなければ火が灯らんと言う事が分かるでしょう。和賀心が神に向かうのを信心というのじゃという信心とはそう言う事だと言う事が分かるでしょう。ただ合楽に足を向けておると言う事が神様に和賀心が向いたのじゃない。神様を信じるから、言わんで済む私になった時にそれが、始めて信心であり、または、信であります。
だから親先生がああいわれるからと言う所からです、実際はこう思うけれども親先生がああいうてだからと、それを行うたり信じたり、または言わんで済んだりするわけです。だからそう言う所が、本気で稽古されていく内にです、成る程親先生は嘘は仰っていないなあという事になるのです。かえって簡単に申しますと、なら親先生の言うとおりにしておけば本当におかげを頂いた、言う通りにすれば絶対に儲かると例えば言う様な事はね、誰でもできるです。そうでしょうが。
ところが親先生の言う通りにして反対に自分が分が悪くなったり損になったり、かえって難しい問題にこんがらがったりと言う様なその過程においてはあるのです。だから難しいと言うならばそこが難しいのであり、稽古するならそういう時に稽古しなきゃいけんのです。自分の都合のよか時するというなら稽古になりません。私共の心にそういう信が生じてくる。そういう信心が信がいよいよ出来てくる。信心が出来てくると言う事はそういう事じゃないでしょうか。
もう間違いなしに神様に向かっておるわけです。しかもその信じる心が愈々いうなら偉大な信に育っていく。勿論偉大なおかげにも繋がる事。おかげはそれこそ降るようにと神様が仰る。それこそカンテラの中に油がいっぱいあってもというのと同じ事。おかげと私共はおかげの中に、浸り浸かっておるようなもの。けれども信なければおかげはなし、芯なければ光は灯らずである。
ならその信というのは本当の芯でなからなければならんのです。一遍ニ遍親先生任せになったからおかげを頂いたからという信ではなくて、それが繰り返し繰り返しね、いうなら確立するという絶対のものとして、それが確立出来た時にその信に火が灯るのです。その信におかげが伴うて来るのです。愈々一つ本気でね一つ、まぁせめてこの黙って治めると言う事だけでも、自分のものになったら素晴らしい。第一人徳がつくでしょうね。勿論それが段々確立されてまいりますと、神徳になって参ります。
神徳に人徳を兼ね揃えて、そしてそれを示現していく。実意丁寧愛の心をもって、人に伝えていくというてもです、そういう信心の確立を自分の心に願いまたは、それを頂いて実意丁寧愛の心を持って、でなからなければ人にも伝わっていかない。今日は信心せよ信心とは、わが心が神に向かうと言う事をです、それは色々まあこれに広い意味はありますよ。合楽というて一歩でも足を向けたら、それはすでに信心だという解釈も出来んことはないです。またそうでもあります。
今日はそういうのは信心じゃ、いわゆる火が灯るような、信ではないと言う事を聞いて頂きよる。わが心が神に向かうというのは、いうなら黙って治めるといった、治められん所を修める修行をさせて頂いて、そこから生まれてくる成程、黙って治めると言う事はこんなおかげが受けられるのだと、いう信が生まれた時に、神様は信じるものをまた信じるという働きを受けられた時に、初めてですいわゆる神に向かう信とは、そう言う事だと言う事を今日は聞いて頂きました。
信じて疑わない神様疑うにも疑われようがない。唯これがおかげだけを一心に御願いして頂いた、一生懸命参っておかげを頂いたというおかげは次になら、おかげにならないともうその信は揺らいできたり、無くなってしまう様な事にすら成り兼ねないのです。それでは所謂信心が育ちません。育っていく信心とはそういう教えを本気で守り行じさせてもろうて、そこに神様を信じる力が愈々出来てくる、絶対のものになってくる。
だから始めの間はやはり、歯を食いしばらなんようにきつい所もあろうけれども、そこを通り抜けさせて頂くと、竹内先生の例じゃないけれども、綾部さんの例じゃないけれども、そこを通りぬけた向こうに本当にこういう思いもかけない働きが起こってくるという時に、それが愈々自分のものに、確信つけられてくるわけなんです。黙って治めると言う事は神様を信じておるから、黙って治めると言う事になった時には、こんな楽な事はないと言う事になってまいります。
どうぞ。